2012年1月 4日 (水)

どこから行っても遠い町

どこから行っても遠い町どこから行っても遠い町 by 川上 弘美
My rating: 4 of 5 stars

 あるのかないのか分からない、ただゆるく連なった町をめぐる短編集。最後の方までそう思い込んでいた。川上弘美らしい言葉の選び具合、うん、悪くない。そんな初めの印象は見事にくつがえされた。

 最初の印象はこんな感じだ。主人公が毎回違ううえに、物語の中心として焦点を結ぼうとするには、どうにも印象に残らない町である。商店街には昔ながらの個人商店も残っているし、そこで買い物をする客もいる。ただ、それだけ。どこか住みたくなるような魅力もなければ、一度は訪れてみたくなるような磁力もない。確かに、これはどこから行っても遠い町なのかもしれない。

 そう結論づけようとして、まんまといっぱい食わされた。タイトルのつけ方といい、話しのもっていきかたがうまい。そういえば、川上弘美の書く小説はいつもおいしそうである。おもわず食べたくなるようなたこ焼きなんだな。そういう小物類の使い方が上手いな、なんて読んでいると、最後にきて短編と短編の間にある物語の焦点が見えて思わず愕然となる。なるほど全然、読んでなかった。人と人が生きて関係を形作ること、その見え方にこういう形があるんだと思わず気づかされる。気がついてみれば、その場で思わず再読している自分がいる。

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2012年1月 3日 (火)

あけましておめでとうございます

みなさん、あけましておめでとうございます。
最近、忙しさにかまけて更新がおろそかになりつつありますが、今年もよろしくお願いします。
特に読書感想文が全然、更新できてないです。
読むのはいいけど、なかなか書けない。
書き方をもう少し考えたほうがいいのかな。
軽めに書くのと重めに書くのと、変えないと駄目かもしれません。

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2011年12月 4日 (日)

No Titleもしくは偉大な作戦の立て方について

 う~ん、最近時間がなくてあまりブログが更新できていない。忙しいわけじゃなくて時間がないところがミソ。まんまと物量作戦を展開させられている。俗に言うところのデスマーチというやつだ。物量作戦の偉大なところは、1人の人間がまるで2人いるかのように見せられるところだ。数字の見た目は2人分だけれど実際は1人なので、2人分の生産性は一切期待できないどころか1.5人分だって怪しいものだが、それももちろん作戦におり込み済みだ。さらに素晴らしいのは、労働時間が長いほどがんばっている感が醸成されるという理由から、生産性向上、問題回避のための施策はなるべく採用しないようにみんなが励みだす。いわゆる問題の先送りだ。自分で仕掛けておいた時限爆弾に自分が爆破されて死者が発生する。死者の残した時限爆弾におびえながら右往左往するところまでくれば完全に作戦勝ちだ。もはや手も足も出ない。結局、当初コストの倍から10倍のコストをかけることに成功するはずだ。

 そんな無敵にも思える物量作戦を発動し成功裏に導くためには、定石がある。旧日本軍ばりにジャングルに1本線を引いて、これ最短距離だから後よろしくっていって高速道路を使わないと間に合わないくらいの速度で歩いてくるような命令を下せばいいのだ。作戦発動時の常套句は「予算に合わせて人を投入し、納期に合わせてスケジュールを立てればよいのである。」だ。作戦の中身を予算と納期に合わせようだとか、納期に合わせて予算を立てようだとかいう発想は作戦発動の妨害になるので極力慎んだほうが良い。旧日本軍と異なるところは、銃眼の前にいるのは大抵、作戦を立てたものであることだ。ジャングルの中を部隊が移動している最中に気の早い指揮官たちは早くも戦場にいる。気がつけば味方が誰もいない中、最前線で猛攻を受けまくるのが常だ。あわててケツをまくってジャングルに舞い戻り、時速100kmでジャングルを行進してこない部下たちをののしりまくれば、作戦の成功は完全に疑いのないものとなる。

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2011年11月20日 (日)

夢の本屋さんのある街 ポルト

 ポルトガルの商業の中心ポルト。リスボンと比べるとポルトの方がヨーロッパっぽい雰囲気。リスボンに負けず劣らずの坂の街で急斜面の坂道と階段、路面電車にケーブルカーにロープウェー、乗り物も負けずにいろいろそろっている。

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 そしてなにより素晴らしいのは、リスボンより物価が安くて食事が美味しい。夜の食事ともなれば、食前酒にポートワインを飲んで食事中はポルトガルワインを堪能する日々。特にドウロ河沿い、旧市街の対岸側にワイナリーが立ち並ぶ辺りは、お洒落で味のいいレストランが多くておすすめ。ポートワインというと甘ったるくてあんまり好きじゃないと思い込んでいたんだけれど、ここで出してくれたLBV(レイト・ボトルド・ヴィンテージ)のポートワインが美味しくて印象がずいぶん変わった。確かに甘いのは甘いのだけれど、甘さが後味に残らない。なんというか上品な甘さなのだ。

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アズレージョで飾られたおしゃれなサン・ベント駅

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ドン・ルイス橋 上は電車、下は車が走る2段の橋

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アズレージョで飾られた教会

 ポルトの教会といえばサン・フランシスコ教会は必見。中に入ると思わず感嘆のため息をもらしてしまう。日光東照宮もびっくりなほど豪奢な木彫が金泥をほどこされて壁一面を埋めつくしている。ポルトガルの教会は木彫と金泥を使った装飾が多い。石と金属が少ないせいか、教会内にいてもなんか落ち着く。装飾も金泥を使っているので単なるキンキラじゃなくて雅やかといった感じ。大航海時代には盛んに船が作られたんだろうし、ポルトガルは木を扱う技術が発達していたんだろうか。

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レロ・イ・イルマオン
 ものすごい豪華な内装の本屋さん。アールヌーボー様式の凝った装飾で埋めつくされた店内には、美術書やら学術書、小説に絵本、店主が売りたい本をぎっしり詰め込んでる。記念にペソアでも買おうと思ったけれど分厚いやつしか置いてなかったのでやめた。いいな~、こういう本屋を開きたい。

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2011年10月29日 (土)

ヨブ記

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)旧約聖書 ヨブ記 by 関根 正雄
My rating: 3 of 5 stars

 ユダヤの神様のなんと合理的なことか。そして合理的であるがゆえに、なんと容赦ない強力な神なのだろうか。人は何故、神を信じるべきなのか。敬虔でいて徳を積めば、いいことあるから?神は悪しきをくじき弱きを助けるから?不幸にみまわれた人は悪いことをしたからしょうがないのだろうか。因果応報?自己責任?そうじゃないはずだ。信仰とはいったいなんだろう、人は何故、神を信じるのだろうか。さすがに聖書だけあって、非常に説得力に富んだ物語。主人公は敬虔さと信仰心、そして倫理観、すべてをあわせもったヨブ。彼の姿は理想の、そして究極の人間像に近い。人間の中の人間、それがヨブだ。そんなヨブの身に起こった出来事を通じて、何故を突き詰めていくのがヨブ記だ。

 ある日、ヨブは見に覚えのない不幸に見舞われる。すべてを失い、自らの肉も腐り果て、苦しみ、灰の中にただうずくまる日々。彼の友人はいう。悔い改めよ、あなたは罪を犯した。ゆえに神に罰せられているのだ、と。ヨブは言う。見に覚えのない罪を悔い改めることは出来ない。この時点でヨブ自身もまだ、因果応報観に囚われている。ただ、ヨブが他の友人たちと異なるのは、不幸から救われたいがゆえに見に覚えのない罪を形だけでも贖うという偽りを行わなかったことだ。議論を通して、次第にヨブの思索は深まっていく。そして、一つの結論を導き出そうとする。神が間違っているのだ。この結論は、きっとユダヤ教にとって一つの岐路だったはずだ。因果応報で全ての問題が説明できないのは、当時の人々も感じていたはずだ。だからこそ、ヨブ記を作ったのだともいえる。ところが、スーパーマンのような無敵のヒーローとしての神、つまりまったくの過ちを犯さない完全無欠の神では因果応報の例外に説明がつかない。善き人が不幸に見舞われるという事態に説明がつかないのだ。では、スパイダーマンのように弱く完璧でない思い悩むヒーローとしての神、つまり神といえども完全無欠ではないが善なる存在としての神に答えを見出すべきなのだろうか。

 この議論にけりをつけるべく、ここで本物の神が現れる。神の出現は、もはや議論の余地を残さない。ヨブの不幸は、罪の報いゆえなのか、どうやって因果応報観を脱するべきなのか、答えをもった唯一の存在が答えを与えるのだ。この瞬間は、もはや悟りに近い。突如として議論の次元が変わり、ヨブとその友人たちの議論は、その土台から覆される。議論の余地などどこにも残らない。天地創造を行ったのは神である。大地をきずき波を操る、全ては神の意によって行われたのだ。人間も同様に、どのように扱おうとも神の意によるものだ。神のすることなすこと全てに過ちなど存在しないのだ。まさに神の理屈。そこに因果応報などという議論の入り込む余地はない。ヨブはそこに圧倒的に大いなる存在を見出す。良いことあるかもしれないから祈り、信じるという態度から一歩踏み出し、大いなる存在への無条件の信頼、すなわち神への信仰へと至るのだ。

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2011年10月16日 (日)

リスボン

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 七つの丘と雄大なテージョ河に抱かれた街、リスボン。その街に飛行機で到着したのは夜の9時過ぎ。バスに乗って市街地までやってきたのが10時前。さすがにこの日の宿は、出発前に予約済み。ところが地図を片手に探せども探せども目的地のゲストハウスは見つからない。そもそもアパートの一室を宿にしてることの多いゲストハウスは、ホテルみたいにでかでかと看板を掲げてないことが多いのだけれど、いっこうに見つからないので、はじめて訪れた街で地図どおりの場所に自分がいるのかどうかもわからなくなってくる。中心部から1kmほど離れたポンバル侯爵広場の付近は既にがらんとしていて人通りもあまりなく、道行く人に聞いても要領を得ない。うろうろしているうちに時刻は11時を回る。仕方がない、最終手段のタクシーを拾う。国によってはタクシーに乗ったほうが、だまされたり、ぼったくられたりするのだけれど、ヨーロッパなら大概は大丈夫なはずだ。タクシーの信用できない国には夜に着かないほうが良い、ましてやゲストハウスなんて見つけにくい宿を予約しないほうが無難だ。ホテル代金だってたかが知れている。タクシーを見つけて、道に迷ったので乗せてくれとお願いすると1分ほどで到着。何のことはない、目的の住所は先ほどまでずっとうろうろしてた通りの一角にあった。宿のHPに乗っている地図の指し示すところから道路を渡って反対側の違う路地だ。ドアホンを見ればゲストハウスの名前の入ったボタンが並んでいる。ゲストハウスそのものは、毎朝、焼きたてのパンが朝食にでてくるし、清潔でとても快適だった。

 次の日は日曜日。街全体が沈んだようにがらんとしている。元気なのは観光客ばかりで、店も軒並み休業。観光客相手のカフェやレストランが開いているばかりだ。まさかポルトガルまでショッピングに来たわけでもないので、転がり落ちそうな急な坂を登ったり下ったりしながら街歩きだ。でもその前にコルメシオ広場からテージョ河を見に行く。

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2羽のカモメがポールの上に止まっていた。

 スペインから流れ出したテージョ河は、リスボンに至ると対岸がうっすらとしか見えないくらいに幅を広げて潟をつくる。なんていうか、みてるだけでわくわくするような太陽光に包まれてるテージョ河を見てると、大海原に乗り出していきたくなるのも当然と思われてくる。その気持ちが大航海時代という知識からでてるものなかの、テージョ河の雄大さがなしてるものなのか判然としない。対岸へはロサンゼルスの金門橋を思わせる真っ赤な橋がかかり、終端には、これもリオにあるのとそっくりな巨大なキリスト像がポツンと立っている。時を忘れてぼ~っと佇んでいると、海への気持ちがどんどん高まってくる。一攫千金を目指して見知らぬ土地へ、それどころか土地があるかすら分からない海の先へなんてロマンだなぁ。

 歩きくたびれたら路面電車にのったり、ケーブルカーに乗ればいい。どの車両もおんぼろで、こんな細い道に良くぞ駐車したってな具合の車の脇すれすれを走っていく。坂の途中の信号で止まれば、あまりの急さに発信できないんじゃないかと思うこともしばしばだ。それでも車輪をキーキーと軋ませながら、ぐんぐん登っていく。

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路面電車は真っ赤なのとまっ黄色なのと

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急坂を上り下りするケーブルカー

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奥に見える奇妙な鉄塔がサンタ・ジェスタのエレベーター
リスボンはいろんな乗り物が勢ぞろいしている

 教会を見たり展望台にあがったりもいいけれど路地裏をぶらぶらしているだけでもなかなか楽しい。色鮮やかな家並みにまざってポルトガルに多いのがタイルで飾られた家。時々、絵が描いてあるようなものもある。個人的に気に入ったのがアルファマ地区。古い建物がごちゃごちゃしてて急な階段やら坂道やらを昇り下りしていると、ふと視界が開ける場所があってテージョ河がちらちら見えたりする。夜はなんといってもシアード地区。ケーブルカーのグロリア線終点近くにあるサン・ロケ教会からカモンイス広場までの通りが、夜の繁華街。ファドやる店にJazzバーやクラブなんかが音楽をかき鳴らし、外国ではめをはずした観光客が盛り上がる。そんな通りに小洒落たレストランがあったり、一本通りを入るとレストランがひっそりとお客さんを迎え入れたりしている。カモンイス広場のメトロ入り口くらいまでくると意味もなく人が集まって、大道芸人が火を吹いたりしている。

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落書きといえばひげ

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ジェロニモス修道院

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 ポルトガルのリスボンにあるジェロニモス修道院。ポルトガルのどこが良かったか、一つあげろといわれたら、たぶん、この修道院を選ぶと思う。教会の内部に足を踏み入れた途端に、その優雅さと過剰なまでの装飾性に圧倒される。柱の基部から上部にいたるまでびっしりと文様が刻まれ、天井には優雅なアーチが幾重にもはしる。固い石でできた建造物の内部にいるのに、そのやわらかさに包み込まれるような気がしてくる。装飾のモチーフには、ロープや船、異国情緒あふれるものが選ばれていて、海の覇者の往時をしのばせる。

 1400年初頭に大航海時代の号砲を鳴らしたポルトガルが、その全盛期に圧倒的な財力でもって建設したのがジェロニモス修道院で1502年に着工。建築を指揮したのが国王マヌエル1世。大航海時代の先駆けをつとめ、世界を2分する強国ポルトガルへの先鞭をつけたエンリケ航海王子の偉業を讃えるために建造された。世界を2分するというのは、比喩ではなくてトルデシリャス条約なるもので、ヨーロッパ以外の新世界をポルトガルとスペインが分け合うことをローマ教皇が認めていたのだ。なんとも手前勝手な条約だけれど、ヨーロッパにおいては少なくともそう認められていたのだ。ジェロニモス修道院は、そのポルトガルが精力を傾けて作った建造物なのだ。この時代のヨーロッパの建築は、ゴシック建築の末期でルネサンスの影響下にあった。装飾性が強い嗜好として現れてくるバロック建築は、これからさらに100年近くさかのぼった1600年くらいからだ。なのでジェロニモス修道院の建築様式は、ポルトガル独自の建築様式としてマヌエル様式と呼ばれている。建物自体の作りはゴシック様式的なので、たぶん、1世紀早かった装飾性への志向を指してマヌエル様式と言うのだと思う。

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修道院付属の教会内部

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喜望峰を越えてインド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマも眠る。
彼がポルトガルにもたらした富ははかり知れない。

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修道院の回廊
船をモチーフにした装飾

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2011年10月10日 (月)

神様 2011

神様 2011神様 2011 by 川上 弘美
My rating: 3 of 5 stars

 小説を再生産することに意味はあるのだろうか。あらゆる小説は、過去に存在したであろう作品に直接的、間接的に何かしらの影響を受けているはずで、そういう意味ではあらゆる小説が再生産されたものなのかもしれない。けれども再生産するのが元の作品の元々の作者だった場合、意味合いはずいぶんと変わってくる。自分の作品をたった一つの出来事をもとに塗り替える。この場合、3.11の大震災がその出来事にあたるのだろう。そこに明確な意図がない限り、たった一つの出来事で作品を塗り替えてしまうことは、その作品の強度不足を自白するようなものだ。少なくとも川上弘美には、あの手この手で同じ内容の文章を焼きなおし、毎年毎年使い捨てにされる最近の新書みたいなことはして欲しくない。これが1人のファンとしての私の思い。

 神様は、くまという異質な存在をごくごく普通に社会の中に溶け込ませたファンタジー風の作品だ。くまとピクニックへ行く。どういう社会生活を送っているのか知らないけれど、くまが人間社会の中で普通に暮らしている。普通の暮らしの中で人間とくまが一緒に河原へピクニックに行く。ただそれだけのほのぼのとした優しさに包まれた作品でありながら、くまという存在の異質、縁という古風な言葉から透かして見える異質ゆえの孤独、そういったものが優しさの中に確かな手ごたえを残す。そういう作品だ。

 2011版では、防護服を着た男やガイガーカウンターが出てくる。ほのぼのとした日常に影がさす。けれど作品の核は変わらない。くまという異質が孤独の影を見せるのだ。そこに新しい日常は現れない。ただ出来事の表面をなぞって、作品の表面を覆ったに過ぎないように思える。新しい出来事とは、くまが人間社会の中で異質な存在でなくなること、もしくはくまが人間社会の中で普通に暮らせなくなることどちらかであるはずだ。今はまだ、そこまでの現実はやってきていない。けれど現実は、常に現実からスタートするばかりではない。優れた作り物によってはじまる現実も確かに存在するはずだ。震災からの復興もこれから本格的に始まる。ただ表面を取り繕って元にもどすようなものは怠惰に過ぎない。新しい現実、新しい未来を取り込んだものでなければ、失望が待ち受けているだけだろう。そして小説も同じだ。次は、ただ表面を取り繕うようなものではなくて、新しい現実、新しい未来を生み出すような作品を期待している。できれば、くまが異質なものではなくなった世界、そういうのを見てみたいかな。そして新しい現実もそうなっていって欲しいと思う。

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2011年10月 3日 (月)

ポルトガルに行ってきました

サウダーデ、よろしく哀愁な国、ポルトガル。
サウダーデを歌うファドは、思った以上に演歌だった。
そんなポルトガルは、歩き倒すのに最高の国。
路地裏を歩けば、カラフルな家々やタイルで飾った家々が軒を連ね、洗濯物が生活感をにじませる。
どこをぶらついてても教会があって、中をのぞくのがまた楽しい。
ヨーロッパへ行くと教会の荘厳さに圧倒されることがある。
石の重みとか緻密さがひしひしとせまってくる、時には緊張感さえしいられる。
ポルトガルの教会は、そんなヨーロッパの建築とは少し違うように感じられる。
教会の中が華やかなのだ。
お勤めをはたすためというよりも、好きだから教会にいっちゃう、そんな感じがする。

経済危機の最中で豚(PIGS)呼ばわりされているポルトガルだけど、ギリシアと違ってとても平和。
かつては世界の半分を支配した国、正確にはスペインとの間でトルデシリャス条約っていう領土優先権を決めた条約をローマ教皇が認めただけではあるけど、大航海時代のポルトガルはヨーロッパにおいて世界の覇権をかけた争いをするほどの富と勢いのあった国だ。
その富が生み出した建築物をみるのは、今回の旅の目的でもあったのだけど、そんな勢いを無くしてしまった国がどんな国なのか、見てみたいという思いもあった。
行ってみて思ったのは、ポルトガル人の生活はなかなか楽しそう。
毎日のように深夜近くまで路上でライブしてたり、しかも日本の路上ライブとは規模が違う。
舞台組んでギター、ベース、ドラムまで一式そろったバンドが、スピーカからがんがんロックを流して、前のほうでは女の子たちがぴょんぴょん飛び跳ねてる。
繁華街に行けばバーから音楽があふれ出て、若者や観光客がワインをがぶがぶのんで騒いでるかと思えば、一転しておしゃれなレストランが軒を連ねていて、静かにワインを飲んでる場所もあったり。
駅のエスカレータなんて、動いてないのばかりだったり、動いているのが奇跡のようなエレベータもあるから、いいことづくめではないだろうけれど、細かいことに汲々としないで、おおらかに楽しんで生きる選択肢があってもいいな~、と思う。
どこ行っても観光客ばかりなんだけど(日本人はほとんどいない)、観光ずれしてるかというとそうでもなくて、親切だし、居心地がいい。

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ジェロニモス修道院
いろんな教会を見たけれど、やっぱり、ここが一番すごかった。

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ユーラシア最西端 ロカ岬
青い海と青い空が一直線に交わって、なんとなく、世界の果てって感じ。

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ポルトの街並み
リスボンよりポルトの方がヨーロッパっぽい。

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ボン・ジェズ教会

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なんとなく見てて楽しい、ポルトガルの路地裏


とりあえず、ハイライト版ってことで、他にもいろいろ見てきたので、また更新します。

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2011年9月11日 (日)

アイデアの力

 たった18分のスピーチで世界を変えることができるそう信じ、そんなアイデアの力を持った人たちがスピーカーをつとめるTED。名前は聞いたことがあるけれど、英語なので全然、興味がなかった。どうせわからないからね。そしたら字幕つきでみられるようになっているのを知った。感想を一言書こう。

 すごい。

 研究してる内容も確かにすごいんだろう。私たちの知らない世界を次々と披露してくれる。もちろん、研究者以外にも指揮者とかいろんな人がスピーチしてたりする。当然、普段なかなか知ることのない世界なんだけど、スピーカーが何を考え、何を伝えたいのか、情熱がばんばん伝わってくる。そんな本気の話しを聞いてると、世界の見方が変えられていくのに気づく。たかが見方と思うかもしれない、物事をどういうふうに見ているのか、同じものを同じように見ていても、その捉え方は人によって驚くほど違う。たかだか一介のサラリーマンの仕事ですら、そうなのだ。大勢で一つの目標に向かって仕事をするということは、見方を共有することだ。目標は何なのか、見方一つでゴールへのプロセスは全然違ってしまう。私にはこう見える、だからこういうアプローチが最適だと思う、それが伝わって共有できてこそチームなのだ。見方を共有し、そこへのアプローチを吟味し、プロセスを洗練させていく。つまり、「何故か」を認識し、「どうやって」を共有し、「何をするか」をみんなが知っている、それが私の理想とするチームだ。そこへいたるまでに重要なのは、違うことを前提として認識することだ。それがないと見方を共有しようという努力は簡単に放棄される。その結果、「どうやって」いいか分からず迷走したあげく、誰も「何故」それなのかを知らない不思議な産物が出来上がることになる。別のアプローチとして、「何故」を問わずに付和雷同を重ねて妥協の産物を作り上げるという方法もあるだろう。プロセスとしては洗練されている必要があるだろうけど、個人的にはあまり好きな方法ではない。

 話しをTEDに戻そう。研究者ぐらいになると一般人には、何故そういう研究をしているのか、どうしてそうしようと思ったのか、全然わからない。専門的な話しなど論外だ。そういう壁を乗り越えて、何故私はこれに取り組んでいるのか、何を私は伝えたいのか。自分の思いの丈をたったの18分で伝えなくてはならないのだ。伝わるスピーチは本当に情熱的だし、何故TEDで話してるのかがすごいわかる。特に気に入ったのは、神経解剖学者のJill Bolte Taylorさんのスピーチ。

 右脳と左脳は知っていたけど、別人格がいるなんてことは思っても見なかった。そりゃあ、自分探しもするってものだ。重要なのはどうバランスを取っていくかということなんだろう。彼女のスピーチを聞いていると、本当に見方の重要性に気づかされる。

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