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2011年4月10日 (日)

ギリシア美術史入門1

 今までいろんなところを旅行してきて、それなりにギリシアやローマの遺跡を見てきた。なのにギリシア美術について全然知らないのはどうしたことだ。もったいないので、少し調べてみた。せっかくなのでここでまとめてみようと思う。主な参考文献はJ.J.ポリットの「ギリシア美術史」。

 古代ギリシアの文明が偉大な芸術や哲学を残したのは、たぶん、事実だと思う。それが他の文明より偉大なものかはよく分からない。けれど、私はギリシアの遺跡や美術を見ると、単純にすごいと感嘆してしまう。トルコで初めてギリシアの遺跡をみて以来、ずっと興味が失せない。まだ、ギリシアには行ったことがないけど、いつかは行ってみたい。まぁ、それくらいの興味はある。それとギリシアの遺跡の何が良いって、どこも素晴らしく景色がいい。これは、旅行好きにはたまらない。

はじめに

 その国の芸術を知るには、たぶん、その国の文化、歴史を知らなければならないだろう。初めにギリシアの歴史を書いてみる。初期のギリシアの姿はあまり詳しく分かっていない。紀元前1000年頃にアナトリア(今のトルコあたり)沿岸部で初期のギリシア都市が成立したらしい。当時はギリシアより東のオリエント地域やエジプトが文化的に先進地域であり、ギリシアは辺境の地。しかも、その先進地域でもヒッタイトが滅び、ミケーネ文明も滅び、経済的に不調な時代が長く続いていた。そんな中でギリシアは、徐々にその文化を花開かせていく。芸術年表的には、古代ギリシアは3つの時代に区切られる。紀元前700年から同480年までがアルカイック期、紀元前480年から紀元前323年までがクラシック期、以降ローマ時代まで続くヘレニズム期へとつながっていく。

 社会制度としてよく取り上げられるのは、ポリスとアテナイの民主制だろう。古代ギリシアには、ギリシアという国はなかった。ポリスと呼ばれる都市を中心とした市民の集まり、そしてギリシア人により運営されている諸都市の総体が古代ギリシアと呼ばれている。ギリシアは山や川に囲まれた貧しい土地が多い、そしてエーゲ海に広がる島々。陸にあって山、川によって分断され、島では海によって分断され、ギリシアは島の集まりだった。だからこそ、都市という単位がギリシア人集団の基本単位となった。人口が増加してくると、貧しいギリシアの土地では、その人口を支えることができなくなる。飢えて貧しい農民たちが都市へあふれ出すことになった。そこで豊かな土地を目指して南イタリア、黒海沿岸へと植民が進められる。植民都市は、食料だけではなく鉄や銀など様々な資源をギリシア本土にもたらした。やがてその活動は、商業へと姿を変えていく。商業を主として植民活動が行われるようになったのが紀元前7世紀ごろだ。

 そうやって各地へ発展した諸都市では、その数だけ様々な政治体制が存在した。その中で最も有名なものがアテナイの民主制だろう。ただし、当時の民主制と現在の民主主義はまったく異なる。民主制をひいていた当時のアテナイのあったアッティカ地方の人口は31万5千人、その内市民は17万2千人。その他は奴隷と出稼ぎ外国人である(数字はブローデルの「地中海の記憶」による)。当時のギリシア世界では、奴隷は当たり前の制度であり、アテナイが特殊なわけではない。ギリシアが文化的高みを目指しえたのも、奴隷制という犠牲があったからだということは否定しきれないと思う。また、ギリシア諸都市は、東の大国ペルシアから常に圧迫を受けていた。アテナイは対ペルシアへのギリシア諸都市の軍事同盟、デロス同盟の盟主だった。この盟主という地位は次第に変化していき、いつしか各都市はアテナイによって属国化していく。有名なアテネのパルテノン神殿は、アテナイが属国から絞り上げた冨によって作られた。反抗する都市は、容赦なく叩きのめされた。敵はペルシアだけではない、ギリシア都市同士でも常に相争っており、時にはペルシアとさえ組むこともあった。

 いきなり、ずいぶんと否定的なことを書いてしまった。けれど、これがクラシック、芸術の古典であり優れた模範を形作ったアテナイ、そしてギリシアの一面ではある。人は誰かを踏み台にすることでしか、高みを目指せないものなのかもしれない。

地図
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本文

 ギリシアの美術を知るうえで知っておかなければならないこと、それは不安である。ギリシア人は変わりゆくものの中で変わらないもの、カオスの中に普遍の真理を見つけようとした。それが哲学の始まりである。最初に哲学が生まれたとされているのは、アナトリアの港町ミレトスである。タレスは世界の始まり、その根源を水とした。季節は移ろい、動植物は生まれ、そして死ぬ。その中で水は変わらず循環を続ける。動植物は水なしには生きることができない。そうやって世界の始まりに論理的なアプローチを試みたタレスは、紀元前585年の日蝕を予言したとされる。当時のギリシアの美術様式、アルカイックスタイルもまさに変わりゆくものの中に変わらないものの姿をとらえようとしたと考えられる。

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ピラウスのアポロン像

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クレオビスとビトン

 人の形としては別に変ではないけれど、どこか無感動で無表情と感じてしまう。この時代の人物の表情は、アルカイックスマイルと呼ばれる独特のもの。このアルカイックスマイルは、当時のギリシア人が人間の持つ変わらない部分、根源をとらえようとしたゆえの表現であるとされている。そのため、感情という不安定なものを表す表情や仕草は極力排除されている。例えば、このクレオビスとビトン像。二人には伝説があって、彼らの母親が神殿に向かうために牛車の牛を手配できなかった。そこで二人が牛車を引いて母親を神殿まで連れて行く。その二人の屈強さに感激した母親が神殿の女神ヘラに願うのだ。二人にあらん限りの恩恵を、と。ヘラはその願いを聞き入れて、神殿で横になって休んでいる二人をそのまま天に召し上げる。運命にもてあそばれること、老い衰えること、それは不安で恐ろしいことだった。肉体的に絶頂にあり、名誉をつかんだこの瞬間に死んでしまうこと、それが幸運なことだった。

 そんな根源的な表現を追求してきたアルカイック期からクラシック期に移り変わる年代は、明確に規定されている。紀元前480年の第二次ペルシア戦争の勝利である。それに先立つ第一次ペルシア戦争では、ギリシア側は全面的な敗北を喫していた。元々、アナトリア地方のギリシア都市は、東の大国ペルシアの傘下に組み入れられてしまっていたのであるが、紀元前499年に反乱を起こし、同494年鎮圧。ミレトスの成人男子は全員処刑される。この事件によってギリシア人の不安と恐怖はピークに達する。第二次ペルシア戦争では、アテナイ陥落までいたるもペルシア軍を撃退することに成功し、ギリシア人は自分たちの文化や生き方に自信を持つようになっていく。けれど、彼らの持つ不安が失われたわけではない。巨大な東方の大国から圧迫され続けたギリシア人が漠然と持っていた民族の運命への不安から、徐々にギリシア人、個々人が持つ運命へと不安の焦点が移り変わっていく。クラシック前期の芸術では、人間の根源的な部分よりも、より個人に近づいた人間の精神、感情に多くの関心が向けられていく。

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 上の二つの像は、いずれも同じアファイア神殿の像でトロイア戦争のシーンを表している。制作年代が10年ほど違う。上が紀元前490年頃のアルカイック期に、下が紀元前480年頃のクラシック期に作られた作品だ。同じ死にゆく戦士の像にも関わらず、方や悠然と、方や今にも崩れ落ちそうな様子を描き出している。

 個人の感情を考えるときに、ギリシア人はエトスとパトスという2つの概念を根底に持っていた。エトスとは人間本来の持つ性質であり、習慣や自己鍛錬の結果身につけたものである。対するパトスとは、運命や災害など外部からやってくる何ものかによって引き起こされる感情である。エトスとパトスの表現は、美術に限らず劇にも見ることができる。例えば、有名なオイディプス王。平常時、彼は有能な王であった。それが彼の持つエトスである。ところが、その悲劇の運命によってついには自分の目すらえぐってしまう。この悲劇という運命によって引き起こされた彼の状態がパトスである。

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デルフォイの御者像

 デルフォイの御者像は紀元前474年か478年に戦車競争で優勝したときの記念に作られた像だ。勝者としての興奮を胸にしまう御者の高貴なるエトスが前面に出ている。後のヘレニズム期にいたるとパトスの表現が重視されるようになるが、この頃はまだ高貴なるエトスを全身にたたえた像が多い。

 クラシック期に至ってギリシア人は、ブロンズ像を数多く作り始める。大理石と違って細かく繊細な表現が可能なブロンズをギリシア人は好んだ。大理石像よりもブロンズ像の方が一般的になっていく。ギリシア時代のブロンズ製作技術は、現代では復元不可能ともいわれている。けれどブロンズは簡単に鋳造し直すことができるので、多くが失われてしまった。

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リアチェの戦士像

 リアチェ沖で発見された戦士のブロンズ像は、その佇まいといい威風といい非常に素晴らしい。紀元前460~430年くらいに製作された像だとされている。現代の我々からみて、歴史的な傑作であることは確かなのだけれど、誰が作成したのかは不明である。ギリシア史上でも最高の彫刻家として名を馳せているフェイディアスの作品かもしれないと言われているが、もしかすると名もなき彫刻家の一作品である可能性もある。こんな作品がギリシア中に溢れていた可能性だってあるのだ。

 もう一つ、クラシック前期において大きく変化した表現がリズムと均斉の表現である。個人の感情の表現を推し進めるに従って、だんだんと人間の動きへも注意が払われるようになっていく。静止した状態しか表現できない彫像や絵画において、いかに動きを表現するのか。その問題を解決しようとしたのがリズムと均斉の工夫である。

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ミュロン作 円盤投げ

 有名なミュロンの円盤投げ、元々はブロンズ像で写真はローマ時代のコピーだ(ローマンコピーという)。あくまでもコピーなので、どこまで原作に忠実なのかはわからない。けれどギリシア時代の作品は数も少ないので、資料の多くをローマンコピーや文献によっている。円盤投げの最中にこのような姿勢で静止することは、普通ありえない。彼は腕を振り上げた次の瞬間に勢いよく腕を振り出すに違いない。彼は間違いなく円盤を「投げ」ようとしているのだ。これが単純に円盤を持って立っているだけの像だったらどうだろう。円盤を投げようとしているのか、ただ運ぼうとしているのか区別がつかないだろう。動きを表現するためには、ある種の型が必要になる。動きを表現しうる型は、次の動きへのリズムをもたらす。そして型がリズムを表すために、何よりも重要なのが均斉だ。人体造形のバランスを欠いていては、動きにリズムをもたらすことができない。この均斉について「カノン」という論文を発表したのがクラシック盛期に活躍したポリュクレイトスだ。ポリュクレイトスは、数学を彫刻に適用することで、人体造形に理想的な方程式を見つけようとした。「万物は数である」と説いたのは、紀元前6世紀ごろ、すなわちアルカイック期からクラシック前期に活躍したピタゴラスである。ピタゴラスとその教団の教徒たちは、数はいっさいの存在者の原理であると考えた。まず、彼らは音階の和音に数学の比が存在することを発見した。そしてこの世界は、調和(ハルモニア)と秩序(コスモス)で満ちていると考えたのである。変わらないもの、世界の真理を求めようとしたギリシア人たちは、おそらく美術全般についても同様の考え方を推し進めたに違いない。ポリュクレイトスの「カノン」は、その集大成の一つと言えるだろう。

 そしてギリシア美術の集大成とも言えるのが、紀元前447年から紀元前432年にかけて建設が行われたアテナイのパルテノン神殿である。パルテノン神殿の建設をもって、美術史の年表はこの時代をクラシック盛期とする。パルテノン神殿建設の主役は、政治家ペリクレスと彫刻家フェイディアスである。ペリクレスはギリシアに偉大な文化と精神を植えつけようとした。そして、その理想の実現のためにアテナイは、哲学と芸術の庇護者であろうとした。その象徴がパルテノン神殿である。そして皮肉なことに、その行動こそが私たちにはアテナイの帝国主義の象徴に見えてしまうのである。上述の通り、アテナイはデロス同盟の盟主であった。ペリクレスは、まずデロス同盟の軍資金をパルテノン神殿建設に流用する。アテナイの理屈によれば、偉大な理想を実現するために資金が使われることに、同盟諸国はむしろ喜ぶべきであった。こうしたペリクレスの政治的信条は、同時代の思想の潮流に合致している。「人間は万物の尺度である」と述べたプロタゴラスは、自らソフィスト(知者)と名乗り教えることで報酬を得た最初の人と言われている。彼は南イタリアに新しく作られたポリス、トゥリオイの基本法を制定した人物でもあり、人間は万物の尺度であるという言葉は、神々に委ねられていた法を人間という尺度でとらえ直すべし、という意思の表明とも解釈可能である。ギリシア世界には、人間中心主義、そして啓蒙思想が渦巻いていた。そしてその影響は、当然、パルテノン神殿にも及んでいる。パルテノン神殿は、単純な垂直線ではなく曲線や凸型の湾曲が神殿全体の均衡をとっている。これは、人間の目の錯覚を補正するためだと言われている。それだけではない。神殿には神々や英雄の彫刻を置くという常識を覆し、当時の人々の様子がフリーズに刻まれている。他には見られないことなので、異論はあるが、これこそまさにアテナイの人間主義、理想を体現しているとも考えられる。

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パルテノン神殿のフリーズ

 ペリクレスによって構想されたパルテノン神殿建設の総指揮をとっていたのがフェイディアスだと言われているが、フェイディアス自身については不明な点が多く、本当のところはよくわからない。いずれにせよ、パルテノン神殿は、ギリシア中から優れた彫刻家を集めて膨大な数の彫刻を作成し、徐々にアテナイの理想にふさわしい新しいスタイルを模索しながら築かれていった。

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 いずれもパルテノン神殿のメトープでラピタイ族とケンタウロスの戦いを表したものだが、上の方のメトープはどことなくぎこちない。対する下のメトープには、石の重みに耐えかねたようなぎこちなさはなくなり、躍動感に溢れている。神々も英雄も人間的な生命感を与えられている。アテナイの理想が生み出したクラシック盛期の美術様式は、やがてギリシア中に広まっていく。そんなアテナイの様子を当時の歴史家トゥキュディデスは、もしスパルタが廃墟になったら何も残らないが、アテナイが同様の運命に見舞われたとしても、実際の栄光のふたまわりも大きな印象を残すだろうと書いている。アテナイが人間中心の啓蒙主義の最中にいるときに、ギリシアのもう一方の雄、スパルタは蒙昧主義ともいえる態度をとっていた。アテナイの帝国主義と保守的で自主独立を志向するスパルタが争うのは、ギリシアの歴史の中で必然だったのかもしれない(ちなみにアテナイは共和制、スパルタは王制)。30年近く続くことになるペロポネソス戦争に代表されるように、以後、ギリシア中で戦争が風土病のように繰り広げられることになる。この時代、ギリシア人の傭兵が地中海中に溢れていた。有名なアナバシスを書いたクセノフォンは、わざわざ敵国のペルシアまで出かけていって傭兵となっている。その時に一緒に参加したギリシア人の傭兵は、その数1万人にとも言われている。ギリシアのポリスは戦争に疲弊しつつも、なお人口の過剰を持て余していたものと思われる。

 この戦乱と疫病がペリクレスの掲げた理性による人間中心主義の理想をいともたやすく、打ち砕いてしまう。ギリシア人は、再び不安の中に身をおくことになる。ところがこの時代の美術は、当時のギリシア人たちの不安を反映するのではなく、ひたすら優美さを求めることになる。

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パイオニオス作 ニケ像

2へつづく

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